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教えて!ダウンタウン

ごっつええ感じ、ガキの使いやあらへんでで活躍している、 大人から子供まで大人気のダウンタウン。 昔の漫才は、youtubeの動画でみてもやっぱりおもしろい! 最高ダウンタウン!
2024
11,21

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2007
08,11
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一度だけの復活
2001年10月12日、当時のレギュラーの一部に新メンバーを加えて、『ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル』として復活。
内容は往年の人気コントの続編、新作コント、出演者にアドリブで歌を歌わせるドッキリ等。
フジテレビの自社制作であったレギュラー放送時とは違い、ダウンタウンと太いパイプで繋がっている映像制作会社のワイズビジョンが同特番の制作を担当した。
伝説の番組が復活するということで、かなり前評判が高かったが、結果としては9.0%という視聴率に終わり、テレビ東京の「ポチたまスペシャル」の9.5%を下回るこの日同時間帯のワースト視聴率となった。
この日同時間帯で放送された「ジャニーズ大運動会」を演出した当時TBSのディレクターだった合田隆信は、高須光聖との対談で、「ごっつが(自分の番組の)ウラに来るのを知ったのは放送2、3日前。
それを知ったときスタッフに対しごっつは18%行く、うちの番組は8%~9%」と語ったが、実際は「ジャニーズ大運動会」のほうが最高視聴率をとっている。この件を受け、松本は後に雑誌のインタビューで「本当に面白い事はもうテレビではできない」と語っている。
しかしながら、40歳引退説もあった松本が未だにこの世界にいるのは、この一件において「視聴者が予想以上にアホやった」ということで、まだまだ啓発活動としてのお笑いの仕事はやめるわけにいかない、という義務感を起こさせるきっかけにもなった。
このときに視聴率を獲得していたら、もうテレビでやることはないと思っていたという。
この特別番組に出演した藤井隆は、レギュラー時代にも出演した事がある。1997年5月11日放送の「紅白若手お笑いリアクション大合戦」で、他のどんな芸人よりも目立つリアクションを披露しており(『入った喫茶店の客が全員ヤクザだったら?』というリアクションで、藤井は『Here we go!』と連呼しながらヤクザにダンスを見せつけ、ダウンタウンらを爆笑させた)、現在の藤井の芸風の片鱗が垣間見れる。
このスペシャルの未公開を含む全編が2003年に発売されたDVD『THE VERY BEST OF ごっつええ感じ 4』に収録されている。

(出典:ウィキペディア
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2007
08,10
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番組への評価
放送時から「親が子に見せたくない番組」の上位にランクインしていた。しかし松本は、「別にね、『子どもが見たい番組』の上位になってるわけじゃないでしょ?もしそうやったら問題かも知れんけど。親も見せたくないし、子どももそんなに興味を持っていないんですよ。ならいいじゃないですか!」と語っている。
しかし日本のお笑い史に果たした功績は計り知れなく、昭和40~50年代生まれの視聴者に絶大な影響を与えた。

視聴率
・初回視聴率は18.2%とバラエティ番組の中では健闘していた。これはダウンタウンが解答者として出演していた『ごっつ』開始前の番組『世界の常識・非常識!』が好調なうちに終了したこととスペシャル版も高い人気を得ていたことからこの結果となった。
・平均視聴率は15.8%、最高視聴率は1995年11月12日に記録された24.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。『ごっつ』が放送されていた時間帯にはNHK総合で『大河ドラマ』、日本テレビでビートたけしメインの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』が放送されており、いずれも高い人気を誇っていたが『元気が出るテレビ』は1994年8月、たけしの事故により番組に影響が生じてしまい翌年の1995年10月にリニューアルするも人気が伸び悩み1996年10月に終了となった。
・特に1995年は平均視聴率も18.9%と最も高く、この年のフジテレビのバラエティ番組トップに登りつめた。
・晩年の視聴率は後述。

突然の番組打ち切り
改編期でもない1997年11月2日という時期に番組が終了したのは、同年9月下旬にスペシャルが放送される予定だったが、放送される前日土曜日にプロ野球・ヤクルトスワローズが優勝までのマジックナンバー「1」になり、フジテレビ側は急遽、日曜日に放送予定だったスペシャルを翌週に変更しセ・リーグ優勝決定試合に差し替えられた、しかしその変更の連絡すらなかった事に松本側が激怒したからと伝えられている。松本が「スペシャルの放送を翌週に放送変更、プロ野球中継に差し替えられる」事を知ったのは当日・日曜日の昼過ぎで、松本はフジテレビ編成局へ連絡し当初の予定通りに"スペシャル"の放送を要望したが、フジテレビ側は聞き入れずセ・リーグ優勝決定試合を放送した。
実際、松本は大のプロ野球嫌いで、他の番組でもプロ野球中継やリーグ戦のあり方等、プロ野球を何度も非難していた。尚、その時の松本の言動を聞いた当時の吉本興業の社長だった中邨秀雄は憤り、松本を呼び出し大説教まで行なった。
また、打ち切り直前の1997年4月にロケ企画がメインになってから、視聴率は10%前後と低迷しており、改編期を待ってからの打ち切りでは、ダウンタウンのプライドが許さなかったのではないかという説もある。前述の「松本ボイコット事件」は、スタッフに対して積もり積もった不満が一気に爆発した形で勃発した。
フジテレビの属するフジサンケイグループは、ヤクルトスワローズの株を持ち経営にも関与している提携会社であり、スワローズ優勝を放送することはグループの一員として当然であり、視聴率目的だけではなく、フジテレビとして責務であったという事情がある。
更に、番組打ち切りの原因として挙げられるのが、番組そのものの内容である。「一歩間違うといじめや差別の促進になりかねない」「下品・過激な言動、セクハラ的行為が見られる」「ダウンタウンだけが特別扱いされ、他のレギュラーが不当に扱われている」など「低俗番組」として批判が非常に多かったという事実があり、フジテレビも既に番組に見切りをつけていた、と言う見解もある(但し後の「一人ごっつ」や「人志松本のすべらない話」や「働くおっさん劇場」などの同局の番組を一切考慮しない見解ではある)。フジテレビのある幹部(※報道によくある「名前も出せない関係者」発言な点に留意は必要)が「テレビ局が1タレントの言いなりになってたまるか」や「松本が我が局を私物化しようとしているのには不愉快だ」などの発言もあり、スタッフ側を援護した。
一方、松本のその後の活動や発言から、松本個人は、番組内容に対する世間の批判や苦情(例として「食べ物を粗末にするな」と言ったクレームが良く上がる)等に対して、それを受け入れて番組を降板し、持論を変える弱腰な人物ではない。
松本はこの件でプロ野球関係者からも批判を受け、豊田泰光からは週刊ベースボールのコラムで名前こそ出さないものの「野球関係者に対する侮辱ですよ」と書かれた。また、当時の吉本の社長中邨秀雄から大説教を食らった件は中邨自身が学生時代ラガーメン(ラグビー選手)でありスポーツ関係者全般に対して非礼であったと感じたため「言語道断だ」と憤っていたいう説もある。
一方で大沢啓二は、自分の仕事にプライドを持つ松本の姿勢を高く評価していた(野球好きである萩本欽一が、野球中継への差し替えは当然のこと、松本のような行動をとったら笑われるとコメントしたことに対して)。
この件のしばらく後に、他の番組で古田敦也らヤクルト選手と共演し、この件をネタにトークを展開。その事件によるお互い個人的なわだかまりは無いことを強調していた。

(出典:ウィキペディア
2007
08,09
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・エアバッグ事件
初期のコーナー「なんなんなあに何太郎君」で、「車のエアバッグは本当に出るの?」というのを確かめる回で、スタッフがエアバッグの威力を事前に確認するのを怠り、爆発するエアバッグを顔面に受けた松本が、顔面に全治一週間のケガを負ってしまう事故が発生した。撮りだめがなかったため、次回放送は急遽、番組史上最初で最後の生放送となったが、レギュラーコーナーは全て予定通りこなした。森口博子やウッチャンナンチャンがゲスト出演したほか、オープニング曲を歌っていたすかんちも出演、スタジオでオープニング曲を歌った。当時、療養中の松本の自宅に見舞した作家・高須によると、顔中カサブタだらけで腫れ上がっており、しかも何太郎君のメイクも残っていて凄まじい顔だったが、それを態度に出すまいと平静を保ったという。事故直後、病院に向かう際にスタッフに松本は「ここまでやってんからできる範囲でオンエアしてや」と言ったという。次の回の「何太郎君」では、登場のときに車のハンドルを持たされ「まだちょっと怖いんじゃ!」とキレていた。当時、忙しくてなかなか休めなかったダウンタウンであったため、お兄さん(浜田)が「ゆっくりできたじゃないか」と言うと「あんなメイクも取られへん休みいらんわ!」と返していた。

・コント打ち切り事件
初期の連続コント「ご存知!ハマダ芸能社物語」に続いて新コント「鳴呼!花の番頭さん物語」が始まった。潰れそうな温泉旅館が舞台で、そこの熱血若手社員が板尾、ぼっちゃんが今田、番頭が蔵野、前シリーズからそのままのキャラがスライドした「人生・幸子」の松本とYOU(お笑いをやめて、流れてきて板前をしているという設定)、そして旅館再建のために取引銀行から送り込まれてきたのが浜田など、お約束的な配置で旅館を建て直していく、というのが話の軸。しかし、その浜田が属する銀行の名前を実在の『なにわ銀行』というのを使ってしまい、なおかつドラマの中で相当な悪役として描かれた(「ケチ銀」などと言われる)ためか、猛クレームが来たらしくこのコーナーは1回っきりであっさり終わってしまう。次週の放送では謝罪のテロップが入った。

・板尾降板事件
板尾が、自称18歳だという女性を自宅に招いてお年玉をあげたら、実は14歳だったということで青少年育成条例違反で逮捕され、しばらく謹慎期間になり1994年5月からごっつを降板した。しばらくそのまま続けていたが、「ごっつええ感じあかんめっちゃ腹痛いマジでマジで」に出演していた東野幸治が1994年10月からレギュラー入り。謹慎期間後、普通ならほとぼりが冷めても復帰は絶望的な状況だが、松本のバックアップで1995年1月からカムバックを果たす。復帰第一弾のコントで板尾は篠原に「お前も半年休め!」というツッコミを繰り出した。

・浜田骨折事件
スタジオの準備が遅れてることに怒った浜田が、楽屋のロッカーを思いっきり蹴ったところ、右足を剥離骨折してしまった。以後しばらくはギプス姿で出演していた。松本はなんで怒ってるのかわからず、数年ぶりに電話で浜田と話したらしい。

・グラサン破損事件
1996年の春の2時間スペシャルの「THE TEAM FIGHT」で以前「HEY!HEY!HEY!」で「チームファイト」に出たいと要望があったザ・ハイロウズと梶原善がゲスト出演し、「ハイロウズ」チームと「ごっつ」チームに対戦。ドッジボール対決(双方の壁後ろに何台ものピッチングマシンが仕掛けられ、どこから飛んでくるかわからない)を行い、1勝1敗のまま最終対決で7人-7人に合わせる為に松本が「ハイロウズ」チームに移行した、ゲーム終盤に当時ハイロウズのメンバーだった白井幹夫の顔面に当たり、大切なサングラスが壊れるハプニングが起きる。その後、白井はボール代わりに使ったベッドを用意し途中退場となった。

・松本ボイコット事件
1997年春頃にゲームコーナーのセットが、指示したとおりの物ができていなかったという理由で、ちゃんとできるようになるまでと松本がコントの収録をボイコットし、浜田も同調した。浜田は松本と相談したわけではないが、人伝に話を聞いて、「松本には絶対折れるなって言うといてくれ」とマネージャーに言ったという。理由は、松本はなんだかんだ言って優しいので、きっと謝られると折れてしまうだろう、それではいけないと思ったため。その間、番組は4週に渡って過去の傑作選でしのいだ。スタッフに対して積もり積もった不満が二人ともあったらしく、この事件で爆発した形。スタッフへの不信はさらに高まり、後々突然の打ち切り劇(後述)につながる。

(出典:ウィキペディア
2007
08,08
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ダウンタウンのごっつええ感じ(だうんたうんのごっつええかんじ、英字:Gottsu "A" Kanji)とは、フジテレビ系列で1991年12月8日から1997年11月2日までにかけて放送されていたバラエティ番組である。日本バラエティ史に残る数々のコントを生み出した。放送時刻は毎週日曜日の20:00 - 20:54(JST)。通称『ごっつええ感じ』、『ごっつ』。

概要
1991年正月放送の『ダウンタウンのごっつええ感じ マジでマジでアカンめっちゃ腹痛い』、さらにゴールデンタイムに進出し『火曜ワイドスペシャル』の枠で行われた2度のトライアル放送が好評を博し1991年12月8日にレギュラー化された。『おかんとマーくん』や『Mr. BATER』などの名作コントで人気爆発。後からDVDやVHSでもリリースされ、ベストセラーになる。
ちなみに、松本人志のみの出演で『一人ごっつ』→『新・一人ごっつ』→『松ごっつ』が兄弟番組として深夜帯に放送されていた。
尚、司会のダウンタウンの2人はこの番組の終了以降、松本がごっつ終了直後同局深夜で再開された『新・一人ごっつ』でコントを続けていた以外は、ダウンタウンとしてのコントは原則として行っていない。例外としてビデオ『VISUALBUM』と後に放送されたこの番組のスペシャル『ものごっつええ感じスペシャル』でコントを行った。

出演者

司会
・ダウンタウン
・浜田雅功
・松本人志

レギュラー
・松雪泰子(~1992年3月)
・伊藤美奈子(~1992年3月)
・吉田ヒロ(~1992年9月)
・山田花子(1992年10月~1993年3月) - プロレスラーに転身するため卒業(その後芸能界復帰)。
・西端弥生(~1994年5月) - 出産のため卒業し、そのまま芸能界を引退したと思われる。俳優・古田新太の妻。
・YOU(~1997年3月)
・篠原涼子(~1997年3月)
・130R
・ほんこん
・板尾創路 - 1994年5月~12月の間は不祥事による謹慎のため、出演しなかった。
・今田耕司
・東野幸治(1994年10月~) - 東野はレギュラー放送前のスペシャル「あかんめっちゃ腹痛いマジでマジで」には出演していたが、レギュラー放送開始では130Rに変更となった。理由は、浜田から「東野は協調性がないからアカン」の一言があった為。レギュラー復帰は板尾の降板によるテコ入れがきっかけだが、最終的に板尾が復帰し、女性陣が降板することにより、「黄金メンバー」と言える布陣が完成した。
※1997年3月のYOUと篠原卒業から番組終了までの間は男性のみとなり、華はないがよりダウンタウンの意向が反映される内容になった。同時にコントが激減し、ロケ企画がメインになった。


(出典:ウィキペディア
2007
08,07
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世界の常識・非常識!(せかいのじょうしき・ひじょうしき)は、フジテレビ系列で1990年4月15日から1991年11月3日まで放送されたクイズ番組。放送時間は日曜日午後8時~8時54分。

概要
世界のあらゆる職業や治安をテーマに2チームに分かれての対抗戦システム。オープニングクイズは口答式で一人一人にクイズを出題(番組後期には早押し問題となった)。その後に書き問題がある。200点でパーフェクト賞。


出演者
総合司会
・逸見政孝
アシスタント
・有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)
解答者
・大島渚
・加納典明
(大島と加納は隔週で交代に出演)
・和田アキ子
・田代まさし
・ダウンタウン(1991年4月~)他
ナレーション
・塚越孝(フジテレビアナウンサー 当時はニッポン放送に在籍していた 番組開始~1991年3月まで)
・青嶋達也(フジテレビアナウンサー 1991年4月~番組終了まで)

番組終了への経緯
この番組が始まる前のフジテレビのこの時間帯は1986年に終了した『オールスター家族対抗歌合戦』の後、不毛続きだったが一定の人気を獲得し、裏番組の『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)に迫るほどにまでなった。だが、1年半の放送の後、逸見の当時のスケジュールの調整の影響からか放送終了となった。そこで解答者だったダウンタウンに白羽の矢が飛び、『ワールドカップバレー'91』を経て1ヶ月後に『ダウンタウンのごっつええ感じ』がスタートした。この放送終了は打ち切り同然に突如として決定したらしく、最終回当日の新聞の番組表には、最終回の文字のないまま最終回を迎えていた。しかし、この回の最後のシーンで逸見が「次からのこの時間はダウンタウンがやるんです」とバトンタッチをするようなセリフを2人に言い渡していた。また、『ダウンタウンのごっつええ感じ』の第一回放送には逸見がゲスト出演した。

(出典:ウィキペディア
2007
08,06
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夕焼けの松ちゃん浜ちゃん(ゆうやけのまっちゃんはまちゃん)は、1990年10月から1992年3月にかけて、朝日放送(ABC)にて放送されていたダウンタウンが主演のコメディ。タイトル通り毎週土曜日の16:00~17:00の放送であったが、テレビ朝日系列(ANN)のゴルフ中継が編成されることが多かったため、放送されないことも多かった(因みに前番組は「ワールドプロレスリング」)。
形式はそのまま「吉本新喜劇」で、収録もなんばグランド花月で行われていた。新喜劇と違う点は、メインキャストの役柄とセットが固定されており、一話完結の連続ドラマのような形式で放送された。番組のオープニングでは、ダウンタウンによる素人や新喜劇芸人を舞台にあげていじったりするミニコーナーがあった。オープニングテーマ曲「17才はBreeze」は、所ジョージ作詞作曲で、歌は浜田が歌っていた。ミニアルバム「GOBU-GOBU」の中に収録されている。
舞台は、ダウンタウンが生まれ育った尼崎。浜田(主人公)の実家でもある、コンビニが舞台。コンビニの前には東野の家のビデオ屋がある。このコンビニ店内とその前で全て物語りが繰り広げられる。

1991年10月に日曜正午「日曜笑劇場」へ放送時間変更の際、番組名も「松ちゃん浜ちゃんの純情通り三番地」というタイトルに変更され、放送時間も45分に短縮された。また、オープニング曲もザ・ワイルドワンズが歌う曲に変更された。

キャスト
・浜田:浜田雅功
尼崎にあるコンビニ「浜田屋」の息子。すでに両親がいないが、姉二人と妹に囲まれ、いつも仕事を押し付けられている。
・松本:松本人志
浜田の幼馴染。プー太郎。毎回トラブルを起こす。金に汚い。
・花子:山田花子
松本の妹。ブサイクキャラ。
・美保:中山美保
浜田の姉で長女。おばはんキャラ。いつも仕事をせずに遊んでいる。
・由美:末成由美
浜田の姉で次女。同じくおばはん。いつも浜田に仕事を押し付けて姉と遊びに行く。
・やすえ:未知やすえ
浜田の妹で三女。しっかり物。ときどき巻き舌でヤクザ言葉でまくし立てる。
・おかん:木村祐一
松本の母親。花子と一緒に出てくることが多い。
・今田:今田耕司
浜田たちの同級生。6浪中の浪人生で、初期はドテラに瓶底メガネと典型的な格好をしていた。浜田屋でバイトも。
・板尾:板尾創路
浜田たちの同級生。浜田の店に商品を持ってくる配送の仕事をしている。
・蔵野:蔵野孝洋(ほんこん)
浜田たちの同級生で板尾の同僚。やすえにホレている。
・東野:東野幸治
浜田の店の向かいのレンタルビデオ屋「いずこ屋」の息子。浜田たちの同級生。初期のみチャーリーと同じメガネをかけていた。
・チャーリー:チャーリー浜
東野の父親でいずこ屋の店主。役割は新喜劇と同じ。
・ココ:メンバメイ・ココ
東野の妹。
・珠代:島田珠代
浜田のことが好きな女子高生。
・ヒロ:吉田ヒロ
浜田の卒業した高校の番長。出てきてギャグをして浜田にしばかれるためだけに出る。
・雄大:岩瀬雄大
ヒロの仲間。セリフはほとんどない。
・校長先生:井上竜夫
浜田たちの通っていた学校の校長先生。うすらボケている。
その他、ほぼ毎回池乃めだか、内場勝則、島木譲二など新喜劇のメンバーがゲストキャラで登場した。

(出典:ウィキペディア
2007
08,03
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ダウンタウンの素( - のもと)は、1990年毎日放送で毎週木曜深夜0時55から2時まで生放送されていたダウンタウンの冠番組、深夜バラエティ番組。

当時、木曜日には夜10時から毎日放送(MBSラジオ)「ヤングタウン」のレギュラーを持っていたダウンタウンが、そのまま2時間後にテレビの生放送に出演。基本的にはダウンタウンが、視聴者と電話で会話することがメインの番組で、生放送ならではのライブ感と素人いじりの面白さを狙ったもの。
第一回放送はダウンタウンのみで、第二回目から130R、木村祐一をアシスタントにして5人で、のちボブキャッツを解散した吉田ヒロが入って放送。
低予算番組の為、ゲスト芸能人などは一切出ない。

薄暗く素っ気無いセットで、フリートークを中心に繰り広げ、視聴者からはハガキで悩み相談などを募集、面白いものにたいしてダウンタウンから電話をかけて話すという流れ。
相談だけではなく、視聴者から送られてきた面白いモノを数珠繋ぎに物々交換したり、「モリマン比べ」や「パパ出ましょ(愛人をやっている女性を募集して、家とパパの写真を送ってもらう)」などの写真ネタコーナーなどもあった。

最初は私服でやっていたが、途中から衣装として、全員が寝巻きで出演。
松本は浴衣で他はパジャマ。スポンサーにパジャマメーカーがついていたからと思われる。バイト先で同性愛者の板さんに言い寄られて困っている、という話から本当に深刻な人生の悩み相談などもあり、低予算番組のわりにバラエティーに富んでいた。

一度だけ、ダウンタウンが東京から帰れなくなり、二人だけ東京の放送局から中継で放送される回があったが、その際ヤングタウンで話題になっていた松本の芸「ホタル(肛門に火のついたタバコを挿入する)」を実演した。

松本が元々企画した番組であり、ダウンタウンの番組としては異例だが、司会進行を松本が行っている。冒頭は松本一人の絵で始まり、オープニングトークを少しした後、浜田を呼び込むというスタイルが多い。
告知すべき内容や進行をすっかり忘れたり、ADの秒出しなどを無視してたりして浜田につっこまれるシーンもしばしば。

のち、関東ローカルで放送された「ダウンタウン也!」は本番組とほぼ同じ趣旨の内容であったが、こちらは収録番組で生放送ではなかった。


(出典:ウィキペディア
2007
08,02
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小相撲
普段は体験できない、大相撲の世界を一般視聴者に体験してもらおう、という企画。相撲好きにもかかわらず、諸事情で大相撲の世界に入れなかった者から単に興味がある者まで、あらゆる参加者が来たが、『小相撲』なので、新弟子基準(身長・体重)を下回ることが条件だった。序盤はパロディの要素もあるので笑いも出たが、打ち止めの一番では、技術の確かな者同士であったため、とても素晴らしい対戦が繰り広げられた。

お暗いマンガ道場
当時、中京テレビ制作で人気のあった『お笑いマンガ道場』のパロディ。本家同様、漫画イラストによる大喜利で、蛭子能収(この企画には全て登場)、ひさうちみちおなど本職の漫画家も出演している。ウケは二の次で、深夜らしい、くだらない内容の問題が多かった。
ローカル芸能人売り出し企画
上岡がかつてそうだった、関西なら誰でも知っているが関東ではまだ認知が浅い芸能人を紹介VTRで紹介する企画。浜村淳、新野新、キダ・タロー、やしきたかじん、桂小枝、北野誠、桂雀々、タージンなどが紹介された。本人がスタジオに来ることもあった。

テレビの限界
テレビ番組を構成するあらゆるものはどこまで必要か、つまり、何がなくなったら放送できなくなるのか調べてみようという企画。通常のスタジオを構成するすべて(サブ=副調整室は含まない)を書き出し、それを一つ一つ退場させる。いきなりカメラを外そうとするが、そうすると元も子もないので、このときとばかり、プロデューサーやフロアディレクターを外していった。時間いっぱい使い切り、最後はカメラを外して暗転したところでエンディング。

視聴率調査機のある2600世帯だけにおくる限定番組
視聴率の信憑性を調べる企画。視聴率調査機のある視聴者に「今から1分間NHK教育にチャンネルを合わせてください」と呼びかけた。当時のNHK教育は24時で放送を終了しており、チャンネルを合わせても砂嵐のみであったが、この呼びかけに応じた視聴者はNHK教育にチャンネルを合わせた。その結果、この時間帯はビデオリサーチの視聴率調査で最高2%、ニールセン社で最高5.9%(これは当日のNHK教育テレビで放送された全ての番組よりも高い数字であった)もの視聴率をはじき出し、ビデオリサーチ社からクレームが来る事態にまで発展した。また、この企画は1990年に日本民間放送連盟賞番組部門テレビ娯楽最優秀賞を受賞した。
また、EX OSAKA最終回では「視聴率ゼロに挑戦」と題して、「視聴率調査機のある方は今日この番組を見ないでください」とも呼びかけた。
その他にも下記の番組・番組内の企画名はすべてEXテレビの企画で放送されたものが元となっている。

・ザ・ジャッジ! ~得する法律ファイル
・行列のできる法律相談所
・ザ・ベストハウス123
・開運!なんでも鑑定団


(出典:ウィキペディア
2007
08,01
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EX裁判
出演者の悪行(?)を裁判形式で裁く形式で行われる。被告となったゲストの素行を証人ゲストが証言する、いわゆる暴露企画である。弁護士役に上岡、検事役に紳助が扮し、裁判長はチャンバラトリオの南方英二が扮していた。番組の最後に判決が下されるが、もちろん遊びとしての判決である(例えば、女癖の悪さを暴露された被告に「去勢の刑」を言い渡すなど)。東京版の最終回では、これの延長線上的な企画が「遠山の金さん」のパロディで展開された。

不幸自慢
不幸話を持ったゲストを呼んでトーナメント方式で繰り広げる予定の企画であったが、企画自体があまりにも盛り上がらなかったため、1回戦途中で企画を打ち切りゲストを交えてのフリートークに変更された。このため、スタジオに用意されたトーナメント型の巨大ゴンドラはほとんど使用されないままに終わった。

いきなり生電話
著名人ゲストを一人招いて、ゲストと親交がある100人の著名人をピックアップし、その中から無作為にいきなり電話をかける企画。山城新伍、中村勘九郎(現・中村勘三郎)らがゲスト出演した。無予告でいきなり深夜に電話をかけられた相手が、テレビをつけて初めてどのような事態であるかが解る様子が伝えられる、生放送ならではの企画であった。

新年会
新年1回目の放送企画、レギュラーゲストを招き、スタジオに組まれた宴会テーブルを囲んで、鍋をつついたり酒を飲んだりしながらしゃべくる様子を放送していた。

人間すごろく
こちらも新年1回目として放送された企画。スタジオ一面に作られた巨大すごろくの上を出演者自らがコマとなり、大きいサイコロを振って、止まったマスの指示に従いながら進む。途中ジミー大西にクイズを出題して、不正解だとペナルティーを受ける、などの理不尽な仕掛けもあった。結局番組の放送時間内にゴールにたどり着いた出演者は1人もおらず、企画倒れと悟った紳助がエンディングでカメラに向かって「ごめん、2度とせん!」と謝っていた。この企画の司会は大竹まことであり、総集編でVTRを見た上岡・紳助は「こういう失敗する企画は、我々はちゃんと避けてる」と語っていた。しかしこの企画も「100人聞いたら~」に続き「スーパークイズスペシャル」でも紳助の司会で多少アレンジし1996年秋~1997年秋の3回実施した。

自民党国会議員記憶
ジミー大西が、事前に当時の自由民主党の衆参国会議員全員の名前を記憶し、当日生放送で発表するというもの(細川内閣誕生前なので、人数は相当多い)。1時間の番組全部が、ただ延々と名前が繰り返されるだけなのだが(不正を防ぐためCMは番組の序盤にまとめて放送された)、異様におもしろく、越智通雄がなかなか思い出せずにつっかえるあたりで、最高の盛り上がりを見せた。ジミーは全員の名前を思い出すことに成功した。

ジミー大西のニュースコーナー
ジミー大西が(直前の『NNNきょうの出来事』とは全く異なるスタイルで)その日に起こったニュースを読み上げるという番組終盤のコーナー。あまりにもたどたどしい原稿読みに、上岡と紳助はハラハラしながらジミーにツッコミをいれていた。


(出典:ウィキペディア

2007
07,31
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公開弟子審査会
オール巨人と西川のりおの弟子を決めるオーディション。この企画で、当時素人だった元猿岩石の有吉弘行が巨人の弟子入りを果たしたが、半年で破門される。

朝まで生アソビ
朝まで生テレビのパロディー。大島渚、野坂昭如、デーブ・スペクター、大学教授や作家などの文化人が参加し、古今東西ゲームやしりとりなどで遊ぶ番組史上最もくだらない企画だった。朝まで生テレビと同じく、電話やFAXで視聴者から意見を募集していたが、「こんなくだらないことはやめろ」など批判の意見が殺到していた。

芸能才人図鑑
毎回、大物ゲストが上岡と紳助と3人でトークする企画。過去に、坂上二郎、橋爪功、原田芳雄などが登場した。

絵画チャリティーオークション
芸能人が描いた絵画を出品し、オークションするという企画。出品前に、画家の山本集がそれぞれの絵画を評価。その中で、ジミー大西の絵画を高く評価し、上岡も「キミは天才や」と絶賛。オークションでは30万円以上の値段が付けられ、ジミーが画家に転向するきっかけとなった。

EXラジオ
上岡と紳助の2人だけで、ラジオトークするという企画。カメラが1台で固定されたり、上岡と紳助の顔部分だけが映ったりとラジオの雰囲気を強く出していた。途中で、芸能人の明日のスタジオ入り予定など奇妙なコーナーがあった。また、一度だけジミー大西がメインを務める「ラジオジミー」が放送されたことも。

低俗の限界
番組スタート直後の1990年4月5日の木曜日の放送で上岡が1人で延々と喋る企画が放送されたが(このとき上岡は「魏志倭人伝を1時間読み続けて、どこで誰も見なくなるかという企画をやってみたい」と言っていたが、魏志倭人伝は短いのですぐに読み終わる)、放送中テレビ局にとある視聴者から「男が1人で何ベラベラ喋っとんねん、早くハダカを見せろ、ハダカを」という苦情電話があった(苦情電話を入れた視聴者は前番組の「11PM」と思い込んで番組を観ていたらしい)。番組に届いた苦情電話を紹介する企画でそのことを知った上岡と紳助が提案し、実現した企画である。前半はスタジオに数名のヌードモデルが立っていたり、横たわる中でトークを繰り広げ、後半は上岡と紳助の2人がソファーに腰掛けて真面目なトークを展開する企画であったが、問題は2人の頭を挟むように全裸の女性(AV女優)が座っている点であった。ちょうど2人の頭が女性の股間を隠すような位置に来るように設定されており、不用意に頭を動かすと女性の局部が露出してしまうことから、2人が頭を動かさないようにしながら様々な行動を取る様子が奇妙な笑いを生んだ。また、CM前には有名クイズ・ゲーム番組を下ネタにアレンジしたパロディー企画が放送された。ちなみに、この企画が初めて放送された回に、EXテレビ史上最高視聴率(平均12%、瞬間最高視聴率16%)を叩き出したが、初回の放送時に300本を超える苦情電話が殺到する事態となるなど、過激すぎる内容だったためか、合計2回の放送にとどまった。2回目の放送にはルポライターの竹中労がゲスト出演、硬派なトークを上岡と紳助と繰り広げたがこの時も3人の頭を挟むように全裸の女性が座っていた。
また、この回がそれまでの生放送では対応できないとのことからVTR収録となり、後に木曜同様火曜もVTR収録に変更されるきっかけとなったという説もある。


(出典:ウィキペディア

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