2007 |
05,11 |
«東京進出へ»
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吉本内での東京進出における勢力争い
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い~の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。
吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。
第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。
マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。
(出典:ウィキペディア)
吉本内での東京進出における勢力争い
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い~の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。
吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。
第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。
マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。
(出典:ウィキペディア)
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