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教えて!ダウンタウン

ごっつええ感じ、ガキの使いやあらへんでで活躍している、 大人から子供まで大人気のダウンタウン。 昔の漫才は、youtubeの動画でみてもやっぱりおもしろい! 最高ダウンタウン!
2024
11,21

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2007
05,14
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略歴
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。(普通にちゃん付けで呼びづらい雰囲気だったという)

小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)、「見た途端に気を失った。目を覚ましたら浜田が近付いてきて、また気を失った」など。また「小学校5年生にして彼女がいたというなんというハレンチな男であろうか」(『遺書』より)という報告もある。逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた(周りの人曰く、「校内で一番面白かった」)。浜田も当時からコンビを組んでいた。中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。

浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので尼崎のニチイの階段で頭を抱え悩む浜田に、松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。

卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。この頃の事は、松本自身も「地獄」と語るほど精神的に叩きのめされた時期であるという。1人暮らしする金もなく、実家から電車で劇場に通う(しかも支給された電車賃はなぜか源泉が引かれていた)生活は、父親からくどくどと嫌味を言われ、母親からは同期のトミーズやハイヒールと比較されるなどのたまらない状況だった。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。

『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて吉本を代表するタレントとなり、現在に至る。

(出典:ウィキペディア

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2007
05,08
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個性が強いコンビの為、熱心なファンを多く獲得している。松本のシュールなネタと独特の間合いは、「ダウンタウン登場以降、漫才のスタイルがダウンタウンのコピーになってしまった」といわれるほど、以後のお笑い芸人(特に師匠を持たない新世代の芸人層)に少なからず影響を与えた。上岡龍太郎をして「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは二人とも客よりも高い位置で話をやってる。これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と言わしめている。

また彼らは自己の世界観を共有するスタッフと番組制作を行うことが多く、ブレーン的位置にいる高須光聖や、ミュージシャンとしても活動する倉本美津留らの放送作家陣は、彼らの成功に無くてはならない存在であった。番組に出る際は大抵浜田はカジュアルな服装で、松本はスーツ姿で臨む。

二人ともウサギ年で、ウサギ年の人に出会うと手をウサギの手のようにして少し前に出て「我らウサギ団!ピョン!」というのを必ずやっている。

松本が通っていた小学校に浜田が転校して来たのが最初の出会い。互いに第一印象は良いものではなかったが、中学2年のときに放送部で一緒になり友情を深める。当時はお互いに“ツレ”と呼ぶ“相方”がいて、思い思いに同級生間で漫才を披露したりで過ごす。別々の高校に進学の為に交流は一時期疎遠となったが、一度浜田が高校の寮を脱走し、わずかなお金で松本に電話をかけ2~3日かくまってもらうがすぐに高校教師につかまってしまう。高校卒業後、競艇選手の試験に落ちた浜田が、中学卒業当時に冗談混じりに「漫才組まへんか」と言った言葉を、当時既に印刷工の就職が決まっていた松本に改めて諭し説得(松紳より)。これに松本が応じる。当初松本は藤山寛美の印象と自由にやれる環境を指向し松竹芸能を希望するが、浜田の猛反対に遭う。結果、吉本総合芸能学院(NSC)に一期生として入学。師匠を持たないいわゆる「ノーブランド世代」のはしりでもある。同期にはトミーズ、ハイヒール、内場勝則、浜根隆、前田政二などがいる。「松本・浜田」「まさし・ひとし」「てるお・はるお」「ライト兄弟」とコンビ名は変わりつづけたが、1983年に「ダウンタウン」でようやく定着する。「ライト兄弟」の名は飛行機好きの横山やすしから「飛行機をバカにしとんのか」と否定された。

(出典:<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/">ウィキペディア</a>)
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