2007 |
05,13 |
«コンビ愛»
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浜田・松本の2人はプライベートではあまり親密ではないが、不仲というわけではない。HEY!HEY!HEY!番組中にも語っているが、そもそも漫才コンビは彼らに限らず仕事で毎日のように会うために、プライベートでわざわざ会う必要が殆どないだけである。松本は「浜田の家には結婚してから行ったことがない」(著書より)「浜田の息子は赤ん坊の頃に見たぐらいで、それからは会ってない」(「ガキの使い」内での発言)と語り、その逆も同じと思われる。またコンビの不仲説は人気漫才コンビにおいて良くある噂である。
ちなみにお互いの携帯番号すら知らないらしい。2人が携帯電話で話したのは、『ごっつええ感じ』で浜田が怒り狂ってロッカーを蹴り右足を剥離骨折したさい、スタッフから番号を聞き出した松本が浜田に電話した、そのただ一度きりである。松本の「わざわざ電話すんのとか恥ずかしいわ」 発言から、家族と改めて電話をするのが恥ずかしいのと同じような感覚であると思われる。
二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々と喋り続けてしまうらしい。それを日本テレビの特番が逆手に取り、楽屋にダウンタウンが二人きりになってしまうというシチュエーションが用意されたこともある。
その一方で抱き合ったり、キスしたり、キャッチボールをしたり、笑顔で2ショット写真を撮るシーンが一年に数回放映される(テレビカメラの前、しかも共演者に要望されての行動であるが)。特筆すべきはその時の二人には躊躇や照れがほとんど感じられない点で、特別な絆を感じられずにはいられないほどである。そのアツアツぶりは時として観客から赤面の悲鳴が上がるほどである。
松本は「覚えたくはなかったが、浜田の誕生日だけは覚えてしまった」と言い、一方の浜田も「松本と別れることがあったら俺はお笑いはしない。最高の笑いを見続けて来たから、他の笑いなんてできない」という発言もしている。二人がお互いのことを尊敬しあっているのは事実であろう。
最近では、昔ほど気軽に付き合えなくなった互いの関係を少し寂しく思っていることが、『ガキの使い』等のトークで垣間見えることがある。かつて二人のグアム旅行の日程がかぶってしまったことがあるが、その期間中ずっと松本は意図的に浜田との遭遇を避けていた。それを聞いた浜田が「なんで話しかけてくれへんねんな」と聞くと松本は「なんかそれは照れくさいじゃないですか」と答えていた。
また、たまに浜田が風邪をひくと松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来れなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった。(ウンナン・南原やココリコ・田中の証言より)
松本は独身であり、女性関係の話題には事欠かないが、スキャンダルになる事を松本本人以上に浜田が気にかけている節があり、松本がネタとして自身の女性関係の話題を出すと、「今そんな事話さなくていいやろ」と、本気でフォロー、あるいは嗜める事がある。
「笑い」に対する姿勢
彼らを評価する際に、「体を張る」という点が上がることが多い。芸人として芸能界入りした者も、売れるようになると司会業等をそつなくこなし、やがて「芸人」というよりは「タレント」と呼ぶべき存在になることが極めて多い(松本が「心の師匠」と仰ぐ島田紳助などが好例である)。ダウンタウンの二人も売れるようになった90年代には後輩芸人を高い位置からえげつないほどいじることが多く、PTAなどから批判の対象にされる事が多かった。しかし2000年頃を前後していじられ役になる事が若手芸人以上に多くなり、自身の番組において、着ぐるみを被る、鼻フック、生卵を額で割る、熱湯をかけられる、バリカンで髪を剃られる、真冬に半裸で海水浴、そして『ガキの使い』において周知の、尻叩き等の過酷な罰ゲーム等を自身にも課したりなど、吉本興業を代表する日本のエンターテインメント界の大御所でありながら、まるで若手芸人のように体を張って笑いを作る姿勢は大いに評価されるところであろう。松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。
(出典:ウィキペディア)
浜田・松本の2人はプライベートではあまり親密ではないが、不仲というわけではない。HEY!HEY!HEY!番組中にも語っているが、そもそも漫才コンビは彼らに限らず仕事で毎日のように会うために、プライベートでわざわざ会う必要が殆どないだけである。松本は「浜田の家には結婚してから行ったことがない」(著書より)「浜田の息子は赤ん坊の頃に見たぐらいで、それからは会ってない」(「ガキの使い」内での発言)と語り、その逆も同じと思われる。またコンビの不仲説は人気漫才コンビにおいて良くある噂である。
ちなみにお互いの携帯番号すら知らないらしい。2人が携帯電話で話したのは、『ごっつええ感じ』で浜田が怒り狂ってロッカーを蹴り右足を剥離骨折したさい、スタッフから番号を聞き出した松本が浜田に電話した、そのただ一度きりである。松本の「わざわざ電話すんのとか恥ずかしいわ」 発言から、家族と改めて電話をするのが恥ずかしいのと同じような感覚であると思われる。
二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々と喋り続けてしまうらしい。それを日本テレビの特番が逆手に取り、楽屋にダウンタウンが二人きりになってしまうというシチュエーションが用意されたこともある。
その一方で抱き合ったり、キスしたり、キャッチボールをしたり、笑顔で2ショット写真を撮るシーンが一年に数回放映される(テレビカメラの前、しかも共演者に要望されての行動であるが)。特筆すべきはその時の二人には躊躇や照れがほとんど感じられない点で、特別な絆を感じられずにはいられないほどである。そのアツアツぶりは時として観客から赤面の悲鳴が上がるほどである。
松本は「覚えたくはなかったが、浜田の誕生日だけは覚えてしまった」と言い、一方の浜田も「松本と別れることがあったら俺はお笑いはしない。最高の笑いを見続けて来たから、他の笑いなんてできない」という発言もしている。二人がお互いのことを尊敬しあっているのは事実であろう。
最近では、昔ほど気軽に付き合えなくなった互いの関係を少し寂しく思っていることが、『ガキの使い』等のトークで垣間見えることがある。かつて二人のグアム旅行の日程がかぶってしまったことがあるが、その期間中ずっと松本は意図的に浜田との遭遇を避けていた。それを聞いた浜田が「なんで話しかけてくれへんねんな」と聞くと松本は「なんかそれは照れくさいじゃないですか」と答えていた。
また、たまに浜田が風邪をひくと松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来れなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった。(ウンナン・南原やココリコ・田中の証言より)
松本は独身であり、女性関係の話題には事欠かないが、スキャンダルになる事を松本本人以上に浜田が気にかけている節があり、松本がネタとして自身の女性関係の話題を出すと、「今そんな事話さなくていいやろ」と、本気でフォロー、あるいは嗜める事がある。
「笑い」に対する姿勢
彼らを評価する際に、「体を張る」という点が上がることが多い。芸人として芸能界入りした者も、売れるようになると司会業等をそつなくこなし、やがて「芸人」というよりは「タレント」と呼ぶべき存在になることが極めて多い(松本が「心の師匠」と仰ぐ島田紳助などが好例である)。ダウンタウンの二人も売れるようになった90年代には後輩芸人を高い位置からえげつないほどいじることが多く、PTAなどから批判の対象にされる事が多かった。しかし2000年頃を前後していじられ役になる事が若手芸人以上に多くなり、自身の番組において、着ぐるみを被る、鼻フック、生卵を額で割る、熱湯をかけられる、バリカンで髪を剃られる、真冬に半裸で海水浴、そして『ガキの使い』において周知の、尻叩き等の過酷な罰ゲーム等を自身にも課したりなど、吉本興業を代表する日本のエンターテインメント界の大御所でありながら、まるで若手芸人のように体を張って笑いを作る姿勢は大いに評価されるところであろう。松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。
(出典:ウィキペディア)
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2007 |
05,12 |
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エンターテイメント
松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。
浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。
戦友・ウッチャンナンチャン
同世代の吉本芸人(ハイヒール、トミーズ、ジミー大西など)以外の芸人との絡みがほとんどないダウンタウンだが、東京進出後のダウンタウンが出演する最初の代表番組となった『夢で逢えたら』で共演したウッチャンナンチャンとは仲が良い。90年代前期まではダウンタウンとウッチャンナンチャンが一緒に仕事をすることもしばしばであった。また互いの番組に出演するということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号などで一緒になるときは楽屋が一緒だったとのことである。
芸歴ではウッチャンナンチャンがダウンタウンより3年後輩で、年齢もダウンタウンの方が1歳上であるにも関わらず、『浜ちゃん』、『松っちゃん』と呼ばれていて、浜田・松本の二人もウンナンの二人を呼び捨てにせず、「ウッチャン」「ナンチャン」と呼んでいる。その為か、ウンナン一派の出川哲朗(出川は学年こそ同じだが、後輩であるため、『松本さん』、『浜田さん』と呼ぶことが多い)や勝俣州和との仕事も多く、最近では『リンカーン』でさまぁ~ずとも共演している(『笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ'06』で松本は三村とコントも行った)。逆にダウンタウン一派のココリコや山崎邦正なども『ウンナンの気分は上々。』に出演したりしていた。
近年では殆ど共演が見られない両組だが、2003年に開催された第3回M1グランプリでは松本と南原がお笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、めったに見られないツーショットとして、当時からのファンを喜ばせた。2006年度第6回M1グランプリ決勝戦でも、南原清隆と隣の席で審査員を務め、貴重な2ショットを見せた。また、ミュージシャンとして、内村はポケットビスケッツやNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!』に度々出演し、共演を果たしている。またプライベートでは、南原の子供が生まれた際や内村の結婚に際し、祝福のメールを送ったとされる。一方で2対2の共演は1998年放送の『いろもん』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に9年近くない。ちなみに松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのは嫌」と評している。
(出典:ウィキペディア)
エンターテイメント
松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。
浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。
戦友・ウッチャンナンチャン
同世代の吉本芸人(ハイヒール、トミーズ、ジミー大西など)以外の芸人との絡みがほとんどないダウンタウンだが、東京進出後のダウンタウンが出演する最初の代表番組となった『夢で逢えたら』で共演したウッチャンナンチャンとは仲が良い。90年代前期まではダウンタウンとウッチャンナンチャンが一緒に仕事をすることもしばしばであった。また互いの番組に出演するということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号などで一緒になるときは楽屋が一緒だったとのことである。
芸歴ではウッチャンナンチャンがダウンタウンより3年後輩で、年齢もダウンタウンの方が1歳上であるにも関わらず、『浜ちゃん』、『松っちゃん』と呼ばれていて、浜田・松本の二人もウンナンの二人を呼び捨てにせず、「ウッチャン」「ナンチャン」と呼んでいる。その為か、ウンナン一派の出川哲朗(出川は学年こそ同じだが、後輩であるため、『松本さん』、『浜田さん』と呼ぶことが多い)や勝俣州和との仕事も多く、最近では『リンカーン』でさまぁ~ずとも共演している(『笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ'06』で松本は三村とコントも行った)。逆にダウンタウン一派のココリコや山崎邦正なども『ウンナンの気分は上々。』に出演したりしていた。
近年では殆ど共演が見られない両組だが、2003年に開催された第3回M1グランプリでは松本と南原がお笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、めったに見られないツーショットとして、当時からのファンを喜ばせた。2006年度第6回M1グランプリ決勝戦でも、南原清隆と隣の席で審査員を務め、貴重な2ショットを見せた。また、ミュージシャンとして、内村はポケットビスケッツやNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!』に度々出演し、共演を果たしている。またプライベートでは、南原の子供が生まれた際や内村の結婚に際し、祝福のメールを送ったとされる。一方で2対2の共演は1998年放送の『いろもん』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に9年近くない。ちなみに松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのは嫌」と評している。
(出典:ウィキペディア)
2007 |
05,11 |
«東京進出へ»
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吉本内での東京進出における勢力争い
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い~の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。
吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。
第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。
マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。
(出典:ウィキペディア)
吉本内での東京進出における勢力争い
1983年からオールナイトフジに端を発し夕焼けニャンニャンから爆発的に売れていたとんねるずはマンザイブームが産み出したビートたけし世代以後で、当時マルチ・タレントと呼ばれる、お笑いを軸にバラエテイからチャートに顔を出す程の本格的な歌手活動、ドラマ、映画の出演等を幅広く質も高くこなす孤高の「全国区人気」の存在であった。このとんねるずを打倒すべく、あるいはその亜流としてパワーズ(ボケ:須間一也の二代目相棒の火野玉男は堀部圭亮-竜泉。後に奇しくもガキの使い~の放送作家としてダウンタウンと関係する)やABブラザース、CHA-CHA等の東京事務所系タレントが投入されるも殆ど玉砕。現在の隆盛ぶりからは想像できないが、当時の吉本は思うように対抗馬を出せないでいた。事実、天然素材世代やナインティナインはとんねるずの在り方に強い影響を受けており、ことナインティナインはことある事に“とんねるず世代"を公言しており、とんねるずと番組初共演の場でも自己紹介に換えてこのことを告げている。いかにとんねるずの当時の活躍が日本全国を包んでいたかがわかる。
吉本からのリアクションとして、対抗馬の第一弾は木村マネージャー作戦としてとんねるずが石橋貴明=野球、木梨憲武=サッカーと言う国民的スポーツイメージが魅力で、人気の背景にある事に注目し、清水圭=サッカー、和泉修=ボクシングの背景を持つ圭修を「関西向けとんねるず」としてアレンジメントしたが、和泉修が予想以上にボクシングにのめり込んでしまい。その結果清水圭のみがピンで中途半端に東京へ顔を出すことになり、もくろみは成就せず。
第二弾は富井マネージャーが自分の名字を冠する程に入れ込んだトミーズ。しかし、関西は多少ルックスが悪くともしゃべくりが良ければ成功するが、全国区は甘くない。結局トミーズは時代のニーズが求めるものにはなり得ず、関西地区の名声に留まった。一方大崎マネージャーが一押しするのがダウンタウン。だが、当時は吉本ですら彼らの資質を理解しておらず、ダウンタウン本人等も媚びることが嫌いで、自然体だが欲もない。ゆえに大崎とダウンタウンは吉本で孤立していた。しかもこの時代はNSC同期のトミーズとマネージャー戦略としてもライバル視されがちで、富井、大崎両マネージャーも次第に緊張した関係になっていった。トミーズもダウンタウンを嫌が上にも意識せざるを得なくなり、挙げ句、口も聞かなくなる。ある日思い余ったトミーズ雅が出演の待ちの舞台袖で元プロボクサーである事をかさに松本に恫喝行為をするなど、双方過敏に意識せざるを得ない時期もあった。トミーズはNSCでは同期ではあるが年齢がダウンタウンの4才上でもあり、ダウンタウン側も立ててあげたい気持ちはあるがこの事態は好んでいなかった。後に先輩に対してもぞんざいに見えるトミーズ雅のそぶりにオール巨人がトミーズ雅を呼び出し“厳しい躾”を付けた事は当時の吉本芸人がだれでも話題にするネタであった。この時期の年末年始の特番ではダウンタウンがキャスティング されていると同時にトミーズもキャスティングされている状況で競わされている感覚にならざるを得なかった。
マンザイブームからの流れであるマルチタレントの代表とんねるずの人気が上昇し単価が上がるも穴埋めを出来るタレントが長期不在の中、既にマンザイブームから一巡した事もあり、世間もTV業界も次代のスターを渇望し、コントや漫才を受け容れる素地が徐々に整いはじめて来た。フジテレビ「夢で逢えたら」ではコント=ウッチャンナンチャンとひょうきん予備校でも実力も認知されて来た、漫才=ダウンタウンを中心に据えた構成でここからダウンタウンの認知度が全国区の裾野へ広がりはじめた。吉本が企てたとんねるずの対抗馬戦略は軒並み失敗に終わったが、ダウンタウンは戦略では無く、いわば大崎マネージャーの情熱が後押しする中、その実力と人間的な魅力も相まって時代が彼らを求めて地道に広がりを見せたのである。
(出典:ウィキペディア)
2007 |
05,10 |
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余り語られることがないが、松本の著書に記述されている通り、松本が尊敬する喜劇人として挙げる松竹芸能の故藤山寛美の影響が伺える。相手をいらつかせる独特のテンポと間は確かに松本の原点であるとも見える。松本は手放しで藤山寛美を称え、現在でも時折藤山の映像を見直すと言う(著作より)一方1980年代の雑誌「宝島」のインタビューでは自分のお笑いの背景を語っており、その一つにラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下RGS)を挙げている。ダウンタウンは後に、東京進出前にRGSと共演も果たしている。
RGSが演じる、不条理で無意味性を押し出したシュールな世界は所謂「明確なオチのない笑い」であり、微妙で奇妙な空気でエンドになる事が多い。舞台を主な活躍の場としていた彼らは、一切媚びがなく観客を突き放すようなスタイルは東京においてすら一部のお笑いマニア層の話題に上る程度の存在であり、ビートたけしからとんねるずへ繋がる「表舞台」でのバラエティ番組黄金期にあっては、最後まで主流になる事はなかった。
どちらかと言えば関西のお笑いとは対局にあったRGSに松本が傾倒していた点は興味深い。同誌でも「大阪はお笑いの中心地のように言われているが、逆に言えばお笑いには保守的で、新しい物を受け容れず、オチが明確で無ければ絶対認めない風潮がある。早く東京でやりたかった」と語っており、自己の目指すスタイルがRGSに見られた不条理・シュールな世界であることを述べている。
このRGS的なシュールさと藤山寛美のリズムを持った松本に、中田カウス・ボタンの中田ボタンの出演に通いづめることでツッコミに磨きを掛けた「努力の人」(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)浜田が出会うことで、ダウンタウンの全く独自のスタイルが完成された。浜田の存在は、ダウンタウンの漫才を一見関西スタイルの典型的なお笑いとして受け容れやすくし、また松本の凶暴でシュールな笑い感覚も「オトン・オカン」と言った尼崎発のベタベタな庶民感覚でコーティングすることによって、多くの観衆に受け入れられるものとなった。
1980年代の初期ダウンタウンは松本はまだヒキキャラで、現在の様にキレるスタイルは無く、浜田もまたバラエティでも荒く雑な突っ込みや悪態が多く、失敗を重ね、番組中に謝罪を求められる事もあった。しかし松本は元々のセンスに加えて努力を惜しまない。世間が「ダウンタウンは浜田の突っ込みが凄いのだ」と言われると敢えて浜田抜きの番組と舞台やVTR作品に臨み(寸止め海峡やVISUALBUMなど)「松本は若手を使わないと面白くない」と言われると「一人ごっつ」や「松風」等で答えを出してみせる。一方浜田は舞台の客が若年層が多いことを当初気にして、客が笑っていても自分で納得できない舞台があるとカウス・ボタンのボタンの突っ込みを客席の端から凝視し学んだ事もあった。番組でも失敗した状況に似た場面が再度訪れると確実に修正をした形跡を見る事もある。
つまり「才能のある人物が努力を惜しまないコンビ」がダウンタウンのもう一つの姿である。
ちなみに、漫才をカジュアルな格好で演じるスタイルはダウンタウンが始めたように言われているが、中田カウス・ボタンが関西では最初である。
ダウンタウンの漫才そのものが、いわばチェンジアップである松本のボケを基盤としており、間をずらすことでリアリティを意図的に作り出すスタイルであった事を考えると、それがそのままガキの使いで即興的に行われるフリートークに移行していったことは、ごく自然の成り行きであると言える(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)。
また、芸人でありながらタレントの要素が求められた場合、その部分の大半を浜田が請け負う。 松本はゲストを呼ぶ司会業の時に、まず浜田がズケズケつっ込んでいくのを見定めてから「この人(ゲスト)はここまではイケるんや」と、松本自身がボケの目安にしており、その観点における力量は浜田に信頼を寄せているという(「松紳」2004年6月9日放映より)。 元来、見知らぬ人と接することが苦手である松本にタレント的な役割を与えてしまうと、本業のお笑いへの良からぬ影響が懸念される。しかし、それを浜田が一手に担うことで、松本本来のお笑いの才能が発揮できる環境を整える。これにより、単なるタレント業だけない本格的お笑いコンビ、ダウンタウンが成立している。
(出典:ウィキペディア)
余り語られることがないが、松本の著書に記述されている通り、松本が尊敬する喜劇人として挙げる松竹芸能の故藤山寛美の影響が伺える。相手をいらつかせる独特のテンポと間は確かに松本の原点であるとも見える。松本は手放しで藤山寛美を称え、現在でも時折藤山の映像を見直すと言う(著作より)一方1980年代の雑誌「宝島」のインタビューでは自分のお笑いの背景を語っており、その一つにラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下RGS)を挙げている。ダウンタウンは後に、東京進出前にRGSと共演も果たしている。
RGSが演じる、不条理で無意味性を押し出したシュールな世界は所謂「明確なオチのない笑い」であり、微妙で奇妙な空気でエンドになる事が多い。舞台を主な活躍の場としていた彼らは、一切媚びがなく観客を突き放すようなスタイルは東京においてすら一部のお笑いマニア層の話題に上る程度の存在であり、ビートたけしからとんねるずへ繋がる「表舞台」でのバラエティ番組黄金期にあっては、最後まで主流になる事はなかった。
どちらかと言えば関西のお笑いとは対局にあったRGSに松本が傾倒していた点は興味深い。同誌でも「大阪はお笑いの中心地のように言われているが、逆に言えばお笑いには保守的で、新しい物を受け容れず、オチが明確で無ければ絶対認めない風潮がある。早く東京でやりたかった」と語っており、自己の目指すスタイルがRGSに見られた不条理・シュールな世界であることを述べている。
このRGS的なシュールさと藤山寛美のリズムを持った松本に、中田カウス・ボタンの中田ボタンの出演に通いづめることでツッコミに磨きを掛けた「努力の人」(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)浜田が出会うことで、ダウンタウンの全く独自のスタイルが完成された。浜田の存在は、ダウンタウンの漫才を一見関西スタイルの典型的なお笑いとして受け容れやすくし、また松本の凶暴でシュールな笑い感覚も「オトン・オカン」と言った尼崎発のベタベタな庶民感覚でコーティングすることによって、多くの観衆に受け入れられるものとなった。
1980年代の初期ダウンタウンは松本はまだヒキキャラで、現在の様にキレるスタイルは無く、浜田もまたバラエティでも荒く雑な突っ込みや悪態が多く、失敗を重ね、番組中に謝罪を求められる事もあった。しかし松本は元々のセンスに加えて努力を惜しまない。世間が「ダウンタウンは浜田の突っ込みが凄いのだ」と言われると敢えて浜田抜きの番組と舞台やVTR作品に臨み(寸止め海峡やVISUALBUMなど)「松本は若手を使わないと面白くない」と言われると「一人ごっつ」や「松風」等で答えを出してみせる。一方浜田は舞台の客が若年層が多いことを当初気にして、客が笑っていても自分で納得できない舞台があるとカウス・ボタンのボタンの突っ込みを客席の端から凝視し学んだ事もあった。番組でも失敗した状況に似た場面が再度訪れると確実に修正をした形跡を見る事もある。
つまり「才能のある人物が努力を惜しまないコンビ」がダウンタウンのもう一つの姿である。
ちなみに、漫才をカジュアルな格好で演じるスタイルはダウンタウンが始めたように言われているが、中田カウス・ボタンが関西では最初である。
ダウンタウンの漫才そのものが、いわばチェンジアップである松本のボケを基盤としており、間をずらすことでリアリティを意図的に作り出すスタイルであった事を考えると、それがそのままガキの使いで即興的に行われるフリートークに移行していったことは、ごく自然の成り行きであると言える(ダウンタウンDXゲスト:島田紳助の回から)。
また、芸人でありながらタレントの要素が求められた場合、その部分の大半を浜田が請け負う。 松本はゲストを呼ぶ司会業の時に、まず浜田がズケズケつっ込んでいくのを見定めてから「この人(ゲスト)はここまではイケるんや」と、松本自身がボケの目安にしており、その観点における力量は浜田に信頼を寄せているという(「松紳」2004年6月9日放映より)。 元来、見知らぬ人と接することが苦手である松本にタレント的な役割を与えてしまうと、本業のお笑いへの良からぬ影響が懸念される。しかし、それを浜田が一手に担うことで、松本本来のお笑いの才能が発揮できる環境を整える。これにより、単なるタレント業だけない本格的お笑いコンビ、ダウンタウンが成立している。
(出典:ウィキペディア)
2007 |
05,09 |
«結成後»
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結成直後
「2人が向かい合うように立って声を張らずに喋る」という彼ら独自の一見ダラダラした漫才スタイルを取っていたのは、当時の吉本でも大木こだま・ひびき辺りしかいなかった。彼らはまず漫才を本格的にスタートさせるに当たり、以前より最も好きな紳助・竜介の漫才テープを繰り返し聴いていた。その後自分たちの個性に合ったスタイルとテンポに換骨奪胎する形で移行していった。
紳助自身は新世代漫才のあるべく姿を「間を減らしたテンポの早い16ビートの漫才」と見ており、それゆえダウンタウンの登場当初は、その遅いテンポの漫才を「面白いが、果たしてこれが商品として成功するのだろうか?」と疑問を持って見ていた。しかし太平サブロー・シローと紳助・竜介、ダウンタウンとの10日間に渡る花月共演の際、ダウンタウンの漫才の高度さを紳助曰く「ピカソの域に達している」と大きな衝撃を受け、自己の限界を感じてその足で吉本本社へと出向き、漫才を引退する旨を伝えたことは有名である(以上ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から)
紳助は記者会見でダウンタウンの名前を挙げたが、新聞では「紳竜解散! サブローシローらには勝てない」と書かれ、当時まだ無名だったダウンタウンはあえなく報道からカットされてしまった。しかしこの一件から、まだ他の誰もそれほど取り上げる存在ではなかった当時のダウンタウンを的確にその将来性を見抜いて見せた紳助に尊敬の念を抱くこととなり、ダウンタウンとのつきあいはここから特別なものとなった。
vs横山やすしにみるダウンタウンの漫才への姿勢
ライト兄弟時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)にて、家庭内暴力を奨励するネタをやり、司会の横山やすしが「八尾のチンピラが立ち話しでもしとんのか!」と一喝した事実がある。この一件について松本は、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それの何が悪い」と、また「テンポ・間合いばかりを重視してしまうと面白いものが生まれなくなってしまう」とやすしの漫才への姿勢を著書において批判した。ちなみにダウンタウンとして漫才活動は、ビデオ「ダウンタウンの流」を最後に封印している。
「漫才師」
以前松本は「漫才師」という古めかしい肩書きを嫌い、「スーパーギャグメッセンジャー」などと自称していたこともある。その後は「お笑い芸人」「コメディアン」とする事が多い。
現在の松本は「もう漫才をやらないんですか? と聞かれることが多いけど、やるとかやらない以前に僕には漫才師の血が流れてる」と「漫才師」という職業への愛情を語り、一方浜田は自身をタレントやお笑い芸人とは言わずに「漫才師」と称している。(「欽ちゃんの仮装大賞」に出演時の松本の肩書きは、「松本人志(27) 2名 大阪府 漫才師」であった。)
(出典:ウィキペディア)
結成直後
「2人が向かい合うように立って声を張らずに喋る」という彼ら独自の一見ダラダラした漫才スタイルを取っていたのは、当時の吉本でも大木こだま・ひびき辺りしかいなかった。彼らはまず漫才を本格的にスタートさせるに当たり、以前より最も好きな紳助・竜介の漫才テープを繰り返し聴いていた。その後自分たちの個性に合ったスタイルとテンポに換骨奪胎する形で移行していった。
紳助自身は新世代漫才のあるべく姿を「間を減らしたテンポの早い16ビートの漫才」と見ており、それゆえダウンタウンの登場当初は、その遅いテンポの漫才を「面白いが、果たしてこれが商品として成功するのだろうか?」と疑問を持って見ていた。しかし太平サブロー・シローと紳助・竜介、ダウンタウンとの10日間に渡る花月共演の際、ダウンタウンの漫才の高度さを紳助曰く「ピカソの域に達している」と大きな衝撃を受け、自己の限界を感じてその足で吉本本社へと出向き、漫才を引退する旨を伝えたことは有名である(以上ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から)
紳助は記者会見でダウンタウンの名前を挙げたが、新聞では「紳竜解散! サブローシローらには勝てない」と書かれ、当時まだ無名だったダウンタウンはあえなく報道からカットされてしまった。しかしこの一件から、まだ他の誰もそれほど取り上げる存在ではなかった当時のダウンタウンを的確にその将来性を見抜いて見せた紳助に尊敬の念を抱くこととなり、ダウンタウンとのつきあいはここから特別なものとなった。
vs横山やすしにみるダウンタウンの漫才への姿勢
ライト兄弟時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)にて、家庭内暴力を奨励するネタをやり、司会の横山やすしが「八尾のチンピラが立ち話しでもしとんのか!」と一喝した事実がある。この一件について松本は、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それの何が悪い」と、また「テンポ・間合いばかりを重視してしまうと面白いものが生まれなくなってしまう」とやすしの漫才への姿勢を著書において批判した。ちなみにダウンタウンとして漫才活動は、ビデオ「ダウンタウンの流」を最後に封印している。
「漫才師」
以前松本は「漫才師」という古めかしい肩書きを嫌い、「スーパーギャグメッセンジャー」などと自称していたこともある。その後は「お笑い芸人」「コメディアン」とする事が多い。
現在の松本は「もう漫才をやらないんですか? と聞かれることが多いけど、やるとかやらない以前に僕には漫才師の血が流れてる」と「漫才師」という職業への愛情を語り、一方浜田は自身をタレントやお笑い芸人とは言わずに「漫才師」と称している。(「欽ちゃんの仮装大賞」に出演時の松本の肩書きは、「松本人志(27) 2名 大阪府 漫才師」であった。)
(出典:ウィキペディア)
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